猫餌のオマケだった猫、シンディを回想
なんとなくシンディのことを書きたいなーと思っていました。
今は、写真立ての中にいる猫。私の大切な猫。今でも私の心の中に生きています。シンディが亡くなって、何年もの時間が経って、みゅーちゃんに癒され、シンディの記憶も少しずつ薄らいで行く。みゅーちゃんの記憶に上書きされていく。でも大好きだったシンディ。何か残しておきたいなーって。
当時、魔女の宅急便の影響か、黒猫を飼いたいと思っていた一人っ子の高校生でした。
その猫は、あるアーケード商店街にある金魚や熱帯魚を扱うお店の軒先、商店街の人が行き交う雑踏を前に、小動物用の小さいカゴの中に他の猫とすし詰めに入れられ足元に置かれていました。 しかもポップが出てるんです。
「猫の餌3,000円分で、猫一匹差し上げます」
その商店街は、当時付き合っていた子の地元の商店街で、うちの隣駅で、一緒に勉強するとかいう高校生らしい理由でよく途中下車してたんですよね。でもその日は一人でした。どうしてその日その駅で降りたのかも、今では全く覚えていません。
そんなわけで通りがかった金魚屋さんの前、カゴの中にシマシマのトラ猫が入っていました。目があったんです。一度ふと立ち止まったんです。あ、かわいい。猫飼いたいなー。
でもその日は前を通り過ぎました。
でも何度も思い出すんですよ。その猫の顔。めっちゃかわいかったなぁ。
小学生までは結構大きな家に住んでいたんですが、バブル崩壊と家族の死去と廃業とで土地を売らざるを得なくなり、中学の3年間は賃貸マンション暮らしでした。そして高校に入ると同時に母が少し郊外に中古の分譲マンションを買ったんです。 そしたら父が倒れてしまって、父はそのマンションに一度も帰えることなく、3年後に亡くなってしまいます。母にとっては、思い出したくも無い辛い場所になっています。でもそこは分譲マンションだったので、ペットが飼えるということを、私は理解していたんですよね。そして、母の思い出したくない場所は、私にとってはシンディとの大切な出会いの場所になりました。
私は母とあまり相性が良くなくて、特に若い頃は本当にダメでした。だからあまり母にあれこれ相談するってことは全くない方でした。受験の時も、どこを受けるかも、塾の先生と決めていました。 ペットを飼うなんてことだって、母親の了解なんて必要ないと思ってたんですよね。
どうしてもあのシマシマのトラ猫の顔が浮かんで離れない。かわいいかったなぁ。めっちゃかわいかったなぁ。ほしいわぁ。
一人っ子のように育った母親に完全なる一人っ子として育てられた私は、我慢をするってことができません。一度欲しいと思ったら手に入れないと気が済まない。我慢や努力は、私の天敵でした。
翌日、なんか学校が早く終わる日だったんですよね。学校からその足で同じ金魚屋さんに向かいました。何も準備していません。猫を入れるカゴもない。ただ、その辺を歩いてる普通の高校生の格好です。
「すいません、 猫ください」
なんの迷いもありませんでした。
「じゃあまず猫の餌飼って。これな、3,000円。」
今思うと2,3kgあるような大きな袋に入った餌でした。今思ってもあの餌、高いっしょww
「猫選んでや」
「シマシマの子がいい」
「オスとメスどっちがええの?」
「メスがいい」
「ほんならこれがメスやな」
釣り上げられた小さなキジトラの猫はぼんやりしていて、大人しそうなのか、しんどいのか・・・という感じでした。猫が入ってる小動物用のカゴの中は、5, 6匹はいたかなと思うのですが、同じくらいの大きさの猫ですし詰めでした。決して衛生状態がいいとも言えないような状態です。2匹か3匹がキジトラ猫で、じっとして動かない残りの猫は真っ黒でした。おじさんが取り上げた1匹のキジトラ猫。それがシンディになる・・・はずでした。「この子にする」一回はそう言ったかもしれません。でも、その瞬間、開いたカゴの扉から他の猫を押しのけてもう一匹キジトラ猫が這い出てきたんです。
「あ、こっちの子の方が元気そうやからこっちにする」
それがシンディでした。
カゴもない。ただ猫を抱きしめて、携帯電話もない当時、とりあえず自営業の母親に公衆電話から電話をかけて、
「猫拾ったから飼いたいねんけど」
「はあぁ???」
「飼いたいねんけど。飼えるやろ?今のマンション。」
私が何を言っても聞かないのを知っているし、母親も内心では猫ならいっか、って思いもあったんだと思うんですが結構あっさりと、まず動物病院に連れて行かないといけないから連れてきなさいと言われ、数駅離れた母親のいるところまで電車に乗って行くことにしたんです。
動物を電車に乗せるときはなんか、、、必要ですよね。カゴに入れるとか、そのカゴの手荷物料金を支払うとか。何も考えてなかったんですよ。ただもそもそ一生懸命人間の手から逃げ出そうとする元気いっぱいの猫を離すまいと必死に抑えて電車に乗りました。 ちょっと大きめのリスくらいの大きさしかないのにすごい力なんですよ。でもこっちも必死。猫ってこんなに言うこと聞かないのか?!って思ったことを、20年以上経った今でもほんとに鮮明に覚えています。
母親のところまでなんとかしていくと、飽きれ顔だけど、もう仕方ないと諦めている母親が。カゴもない。でも近所に動物病院はある。とにかくそこまで連れて行って予防接種をしてもらわなあかん。猫を深いしっかりした紙袋に入れて、自転車のハンドルにぶら下げて動物病院まで行きました。
今、google mapでその場所を見てみると、まだ獣医院があります。ストリートビューで見ると、当時のままです。すごく小さい動物病院だし、もはやボロボロ感があるのに、前には自転車がたくさん停まっている。優しい先生でした。動物病院には、獣医さんの他にインターンの若い先生も居ました。その獣医さんは、若いインターンの先生を紹介して、「この先生は、いま勉強中だから一緒に診させてもらうね。」ってちゃんと説明してくれました。後にも先にも、人間の病院であっても、こんな先生に会ったことは未だにありません。本当にいい先生でした。私も獣医になりたい!一瞬にしてそう思いました。あの時のインターンの先生も、今も獣医をしていたら、今はもうどこかで自分の病院を持っているかもしれませんね。
獣医さんは丁寧に猫をチェックして、飼う意思、親の同意を確認しました。お金は母親にしっかり貰ってありました。その時注射をしたのか覚えていないけど、
「健康だし病気は持ってないから大丈夫」
そう言われたことだけ覚えています。それから、20年もその猫は、最後の1年に腎臓を悪くするまで、何の病気もせず、しゃみひとつすることなく、寿命を全うするのです。
紙袋に入れた猫。その日は母親と一緒に家に帰ったと思います。どうしたのかわからないけど、最初はカゴのなかで飼わないといけないからと大きめの動物用のカゴを飼って家に設置しました。
当時、写ルンですくらいしかなかったので、うちに来たばかりの頃のシンディの写真は1枚もないのですが、当時設置したけど使うことのなかったカゴはしばらくして撮ったこの写真の背後に写ってるやつだと思います。でも、使わなかったんです。このカゴの網の隙間から出てくるんですよ。隙間より猫の方が小さかったのです。入れても入れても「もうカゴの中は嫌!!!」とばかりにものすごい形相で網の隙間に顔を突っ込んで這い出てでくるんですよ。
うちに来たその猫は動き回って止まりません。身体の軽さを利用して網戸にも登ります。
あまりに止まらないから、ぐるぐる巻きにしても大興奮。母親には完全にお手上げでした。私が朝から晩まで格闘相手となりました。
うちに来たその日、猫から異音がするのに気づきました。
「猫がなんか変な音してる。病気かな?」
子供の頃猫を飼っていたという母親は言いました。猫は嬉しい時に喉を鳴らすのだと。きっとこの子はここに来れて嬉しいのだと。
そっか。この大暴れするかわいいヤツ、一応喜んでるんや。あの時、私が選ばなかったヤツはどうなるのかな?
名前は初めから決まってました。「シンディ」。大好きだったアーティスト、シンディ・ローパーからもらいました。
その猫は、あっという間に大きくなります。子猫のうちに写真いっぱい撮っとこーっとって思いながら、デジカメもない当時、高校生だった私は写ルンですを買うお金もなかったのかなー。全然ありません。少し小さめの頃の数枚の写真だけで、ずんずん大きくなっていきました。
でも最初の一年くらいは、この写真のように鼻のさきっぽは真っ黒だったんです。よく見ると、鼻の真ん中にピンクの点があったんですけどね。
それが気づくとだんだんピンクのエリアが広がってきてしまうのです。真っ黒の鼻がかわいかったのに!!
その猫は、暴れん坊で、走る、跳ぶ、引っ掻く、噛み付く、やりたい放題でした。若い猫と、若い私。毎日追いかけっこをし、噛まれては猫をとっ捕まえて噛み返し、ぎゃーぎゃー大騒ぎしていました。兄弟姉妹のいない私にとって、唯一、気を遣わずにやりたい放題できる仲間でありました。そして、その猫もそれも悪くはない風でした。
うちの母親がいない時間にはべっとり甘えるくせに、母親が帰ってくると、「母親は私のもんやもんねー」みたいな感じで母親にべっとり。私には見向きもしなくなったり、食事中に私が席を立って戻って来たら席には猫が座っていたり。どうやら、私の立場を狙っているようでした。笑
この猫も、一人っ子のように育てられた母親に一人っ子として育てられた私に貰われ一人っ子として育てられ、我慢を知りません。遊びたい時に構ってもらえないと、我慢できずにジャンピングキックしてきたり、腕を噛んで走って逃げたりして、人の気を引こうとします。
1, 2年もすると、鼻の先っぽはもはや完全にピンク色になってしまいました。あぁ残念。でも、ほんとに元気いっぱいでした。
一度だけぐったりしたのは、避妊手術の後ですね。全身麻酔がなかなか冷めなくて、トイレのなかで倒れこむように寝ちゃって、それを見た時だけは泣きました。死んじゃうんじゃないかと思って。なんてかわいそうなことをするんだって、母親を責めたりしました。
高校生つっても、親の手伝いなんてしない親不孝者だったので、シンディのトイレの掃除やご飯の世話は全部母親任せでした。 私はかわいがり、遊び、暴れる担当。
この下の2枚の写真は、ゲーダイを目指していた当時からオシャレで普通の高校生ではなかった友達が一眼レフで撮ってくれた写真(をスキャナがないのでiPhoneで撮った写真w)。
その彼女は、今、唯一、東京に居る同級生です。オサレブランドを主催してるみたいです。 彼女とシンディはとても相性が良くて、シンディは私より彼女のことが大好きでした。彼女が遊びにくるとすごく甘えたりして、やきもちをやいたものでした。笑
ちょうどFacebookが盛り上がり始めた頃、彼女を見つけてメッセージを送りました。
「シンディ、まだ生きてるねんで」
そして、シンディが亡くなった時にも。彼女もシンディのことをずっと覚えていてくれました。
ふぅ。
と、ここまで書いて、疲れたw シンディの20年を一気に一つの記事に書いてしまおうと思ったんだけど、無理だなwww
このあとこの子、シンディは、人間の運命とともに流れ流され、何度も引越しを経験し、何度も新幹線で東京ー大阪を移動し、東京へ引っ越し、 そして東京で20年の猫生を終えたのです。
あの時、シンディにならなかったカゴから出された同じキジトラ柄の猫、その下にうずくまっていた黒い猫、彼らはどんな運命を辿ったのだろう。実は、シンディを飼ってから、それを知るのが怖くて、あの金魚屋さんには近づかないようにしていたのです。本当にどうなったのかわかりません。ただ、地元の噂で、あの店は売れ残った小動物を実験用に売ってるだとか言われていて、それが余計にね・・・先日、地元に帰った時に行ってみたら未だにあるんです。商店街に。代替わりしたのかとても綺麗なお店になっていました。聞きに入ってみたい気もしたけど、20年以上も前の話、お店の人もわからないよね、と思って思いとどまりました。
シンディのことを思い出すと、やっぱり今でも涙が止まらないのです。最後にシンディに約束したことを果たせなかった。ずっと心の中でごめんねって思っていることがある。そこまで一気に書きたかったんだけど、やっぱりもう少し時間がかかるようです。
シンディがいたからこそ、みゅーちゃんを大切にできる。
果敢に生きた猫、シンディのこと、また時間がある時にぼちぼち書いていきましょう。
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